カウンセラーのメッセージ

2019年(令和元年)9月 8日

今年は8月下旬に、秋雨前線のような停滞前線が日本列島に居座り、九州などに大雨をもたらしました。その後9月に入ってからは、8月がまた戻ってきたような暑さが続いています。不思議な天気です。
このところ、毎年のように不思議な天気が発生しているので、もはや天気の予測は不可能ではないかと思う程です。昨年は、台風が東から西に移動するという前代未聞の出来事が起こりましたね。(覚えておられますか?)

さて、来年の今頃は東京オリンピックが終わっている頃でしょうが、東京オリンピックでの暑さ対策はかなり重要なことになりそうです。何せ、午前中から35度を超える日もありますから、選手だけでなく応援する人にとっても命懸けと言っても過言ではない大会になりそうです。
おまけに、地震、台風、大雨、火山活動などの自然災害に対する対応策やテロ対策も考えておかなければならないでしょうから、二重三重の、いやそれ以上の対策や準備が必要です。
福島原発のデブリ撤去準備や汚染水処理も続けながら、リニアモーターカーの建設も続けながら、技術立国としての面目を保ちながらのオリンピック開催には、相当数の人々の協力と努力と犠牲が必要と思われます。

そこまでしてのオリンピック開催には、どんな意味と目的があるのでしょうか。高度経済成長によって、GDPがアメリカに次いで世界2位になった頃の栄光をもう1度ということでしょうか?
はたまた、少子高齢化や労働力不足、経済的格差などのマイナス要因を打ち消すために、日本はまだまだ技術立国として健在であることを世界に示し、スポーツの分野でも日本は世界のトップレベルであることを内外に見せつけるためでしょうか?
あるいは、単純に海外からの来客やオリンピックの来場者による経済効果を狙ってのことなのでしょうか?

そのオリンピックを意識してか、最近、特にスポーツ関係の報道が増えているように感じています。ゴルフ、テニス、野球、バドミントン、バスケットボール、卓球、ラグビー、水泳、柔道、etc.
どのスポーツにも日本のヒーローやヒロインがいて、ニュースやバラエティー番組でも取り上げられています。
まるで、日本中の人にあらゆるスポーツに関心を持ってもらって、世界で戦うトップ選手を育てるために協力してほしいと言っているようです。

ちなみに、私はスポーツが苦手で、特に球技が苦手です。例えば野球だと、ボールがどこに飛んで来るのか予測ができず、たいてい空振りするか、当たっても意図した方向とはまるで違う方向へ飛んで行ったりします。
でも、観るのは好きです。選手たちが普段の地道な努力の成果を、同様に努力した人と競い合いながら私たち観衆の前で見せてくれると、とてもワクワク興奮し、日常の煩わしさを忘れて楽しませてくれます。また、他の人と喜びを分かち合える感じがして好きです。

しかし、それを強要されるのは嫌です。スポーツはプレイする人も観て応援する人も、自分の意志で自由に行なうのが良いと思います。
何が何でも勝たなくてはいけないとか、メダルを取らないと試合に出る意味がないなどというのは、スポーツの目的を履き違えており、個人の健康を犠牲にしてでも勝たなければならないという、戦時中にも強調された自己犠牲が強いられることになります。そして、選手に大きなプレッシャーをかけることになり、選手が自由に伸び伸びとしたプレーをすることを難しくして、スポーツを楽しむためのものから勝利至上主義の苦しいものにしてしまうでしょう。

そこで思い出すのが、1964年に行なわれた東京オリンピックのマラソン競技で銅メダルを取った円谷幸吉(つぶらやこうきち)氏のことです。
彼はその後、次のメキシコシティ・オリンピックで金メダルを取ることを期待され、持病の腰痛にも苦しめられて、メキシコ五輪の開催年の1月に、『幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません』との遺書を残して自死しました。そのことは、当時大きなニュースにもなりましたし、小学生だった私にも大きなショックでした。
勝利至上主義が、選手をいかに追い詰めるものであるかを示す典型的な例だと思います。そのようなことを繰り返してはなりません。

スポーツは楽しみながら、お互いが技術を向上させて競い合い、国境を超えた友好と親善を目的として行なうべきものでしょう。そして、体調を崩したら休んで、回復してからまた楽しめば良いのです。

最近、スポーツの試合後のインタビューを聞いていて思ったことですが、多くの欧米の選手は自分が勝っても負けても『対戦相手の選手の健闘を称える』のですが、日本選手は自分が負けた時に『自分の力不足』と『努力不足』について話し、『次の試合はもっと練習をして頑張ります』と締めくくるのです。相手選手の頑張りや力量の素晴らしさには触れないのです。なぜでしょうか?
言い訳に聞こえてしまうことを恐れるのでしょうか? むしろ、相手選手の力を認め、敬意を表す方が潔いと感じるし、好感度が得られるのではないかと私などは思うのですが、それは一般的な感覚とは違うのでしょうか?
でも、友好と親善を目的とするなら、相手選手を称えるのは当然のことだと思うのです。

ところで、今年の夏の高校野球地方大会、岩手県大会決勝戦において大船渡高校の超高校級ピッチャー佐々木朗希(ろうき)選手が、監督の判断で出場しませんでした。理由は『故障を防ぐため』という明快で分かりやすいものでした。
選手が良いコンディションで長くスポーツを楽しむためには、監督の判断は当然だと思いますが、反対意見も多かったようです。
甲子園に出ることや試合に勝つことを一番の目標にすると、無理をしてでも勝てる選手を使うということになりがちですが、選手の健康を優先した国保陽平(こくぼようへい)監督の采配に、私は尊敬の念を覚えました。国保監督は、選手のことをとても大事にしている人だと感じました。

話しは変わりますが、最近、「教育虐待」という言葉が聞かれるようになりました。子供は勉強があまり得意ではなく、勉強をすることに苦痛を感じているにも関わらず、親が自分の子供を有名中学・高校や有名大学に入れるために勉強を強いることを指します。
問題が解けない時には暴力を振るう親もいるようです。そして、目標とする学校に入れないと、バカ呼ばわりされたり、人格を否定されるような言葉を浴びせられたリ、無視されたり、暴力を受けたりするのです。

どんな親がそうなりやすいかと言うと、いわゆる有名大学を出た人が多く、自分の子供には最低でも○○大学には入ってほしいなどと思っている人です。
そういう親がすべてそうなる訳ではなく、人間の価値は学歴や職業や年収などの社会的評価によって決まると信じ込んでいる人がなりやすいようです。

私が続けてきた自助グループやカウンセリングにも、そういう教育虐待を受けて育った人が時々来られます。そして、中学受験、高校受験、大学受験での挫折が原因で、自分の人生は失敗だった、自分はダメ人間だと思っていることを語られます。
でも、そういう人たちは、特別優秀という訳ではないにしても、客観的に見て力を持っている人であり、個性豊かな魅力的な人たちなのです。
ただ、自分の人生は良い人生ではないと思い込んでいて、消してしまいたいとさえ思っている人が多くおられます。とても、もったいない話です。

2014年に、史上最年少の17歳でノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんは、女性も男性と対等に教育を受ける権利を持っていることを、命を懸けて主張し続けています。

パキスタン人のマララさんは、イスラム過激派によって教育を受ける権利を奪われます。その後、イギリスのBBCにその窮状を訴え、BBCの協力を得て、自分を含む世界中の教育を受けることを禁じられている子供たちが、平等に教育を受けることができるようにと世界に向けて主張し、世界中の共感を得ていきました。

しかし2012年、学校からの帰宅途中、過激派によって頭部に2発の銃弾を受けて生死の淵を彷徨(さまよ)いました。
その後、イギリスで治療を受けて奇跡的に助かり、健康を取り戻しました。そして今でも、世界中の子供たちが等しく教育を受けられるようにと、国際会議や国連などで演説したり、貧しい子供たちに勉学のための資金提供を続けたりしています。
2019年3月には、国際女性会議出席のため来日し、世界中の子供たちが良い教育を受けられるように協力を求める演説をしています。

教育を受けられず、文字が読めず、計算もできず、自分で仕事をして生きていくために必要な知識を得る機会を奪われた人たちにとって、教育を受けることは自分で生きていくために必要不可欠なことでしょう。
そういう人たちは、学ぶ機会が与えられそのための準備ができていれば、喜んで自らどんどん学んでいくでしょう。学ぶことは喜びであり、かつ権利であることを実感できることでしょう。

今の日本においてはどうでしょうか? 学ぶことは喜びだと言える人が、どの位いるでしょうか?
義務教育は無償で受けることができ、高校進学率も98%を超え、大学進学率も50%を超えました。しかし、喜びを感じながら学んでいる人よりも、残念ですが、苦痛を感じながら学ぶことを強いられている人が多いのが実情です。もったいないことです。
多くの税金を使い、親が多額の学費を払っているにもかかわらず、勉強嫌いの人たちが量産されています。
もちろん、そうではない人たちもいるので100%の人が勉強嫌いだという訳ではありませんが、国公立大学に入るために苦手な数学や古文などに悪戦苦闘している人は大勢います。そして、劣等感と挫折感に打ちひしがれている人が多くいます。この現状は、何とかしなくてはいけないと思います。

スポーツでも勉強でも、人よりも優れていることや1番になることを目標にすると、学ぶことや生きることが苦しいものになります。
自分は自分らしく、自分が心から望んでいることを実現するために生きる。他の人との比較ではなく、唯一の自分として生きる。そのためには、学ぶ内容を自分で決められるようなシステムが必要だと思います。人間の人生は十人十色、みんな違っていて良いのですから。

人と人が協力して行なわなければできないこともいろいろありますが、生き方、学ぶ内容、目標とすることは、それぞれの個人が決めて良いのです。生きる主体は個人なのですから、何を学び、どう生きるかは、親も含めて他者が決めることではないのです。
人は誰もが、世界中にただ一人しかいない尊い存在なのですから。代りに生きる人はいないのですから。


ストレスの多い現代社会の中では、悩みを語り合う場所や時間が持てないで、1人で悩んでいる人が多くなりました。悩みや生き辛さは多くの方々が抱えておられることでしょう。
自分の悩みを誰かに相談したり、カウンセリングを受けたり、自助グループに参加したりする事は、決して恥ずかしい事ではなく、むしろ必要で、問題解決への近道である場合が多いのです。
また、今の自分に変化を与えて、より良い人生、活き活きとした人生を歩むためにも、カウンセリングや自助グループは有効です。

このホームページには、「カウンセリング」および「セラピー」の説明、「カウンセリングの内容」の紹介、「自助グループ」のご案内などが載せてありますので、カウンセリングや自助グループについて全く知らない方でも、概略についてはご理解いただけると思います。
また、「カウンセラーの紹介」もプロフィールに載せていますので、興味がある方はご覧ください。

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