カウンセラーの紹介

カウンセラーのプロフィール

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名前

横路 忠(ヨコロ タダシ)
ブログ

出身地

島根県浜田市

学歴

立命館大学 卒業
アライアント国際大学/カリフォルニア臨床心理学大学院 [修士課程]日本プログラム 中退(17単位取得)

星座

獅子座

血 液 型

O型

趣味

読書、音楽鑑賞、散歩、スキー

好きな食べ物

葡萄、梨、イカの一夜干し

カウンセラーの資格

・日本カウンセリング学会 認定カウンセラー
・上級教育カウンセラー
・ガイダンス カウンセラー
・産業カウンセラー
・心理学検定 特1級

所属

・日本カウンセリング学会
・日本教育カウンセラー協会
・日本産業カウンセラー協会
・広島県精神保健福祉協会
・元広島県公立高等学校教諭


カウンセラーになった経緯(興味のある方は読んでみて下さい)

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私は中国山地のど真ん中に生まれ、15歳までそこで生活しました。私の家は農家でした。私が生まれた頃は、まだ牛で田んぼを耕し、ご飯は薪で炊き、洗濯は固形石鹸で手を使って洗い、濯ぎは川でするという時代でした。

その後、日本は高度経済成長の中を突っ走り、私が住んでいた日本の片田舎もその影響を受けました。牛は耕運機やバインダーに変わり、炊事や洗濯はガスや電気を使って出来るようになりました。そして農家の人々は、それらの機械や電化製品を買うために農業以外の仕事もしなければならなくなりました。こういった変化は、私の小学生時代に急速に進みました。
そういう生活様式の大きな変化の一方で、人々の価値観や意識はそれについて行けてはいませんでした。私の親達の世代がまさにそういう世代です。

私は農家の三男として生まれたのですが、子供がいなかった近所の親戚の家に、満1歳の誕生日に養子に出されました。昔の農家では、子供を授からなかった夫婦は親戚の家から養子を貰うという事が、一般的に行なわれていたようです。養子を貰う場合は、ある程度成長してから本人の了解を得た上で、というのが通常の方法だったようですが、私の場合は生まれる前から、実父母と養父母の間で、私を養子に出すことが取り決められていたのでした。そしてその事は、当の私には秘密にされたままでした。

しかし、狭い田舎のことですから、近所の心ない人達が子どもの私に「あんたは養子だそうだなあ。」などと話しかけてきたりしたのです。最初にその言葉を聞いたのは、小学校2年生の時でした。まだ疑う事を知らなかった私は、その日家に帰ると直ぐ、両親に「近所のおばさんが僕を養子だと言ってたけど、あれは本当?」と訊いたのを覚えています。その後、30秒間位沈黙が続き(この沈黙の間が不安でした)、父が「いや、お前は本当の子だ。近所の人が嘘を言うとる。」と言いました。それを聞いて、私はとてもホッとしたのでした。
その後も、何人かの人達から同様の言葉を聞きましたが、もう頭の中には入って来ませんでした。聞き流していたという感じです。でも、なぜそんな事をわざわざ私に言うのかは理解できませんでした。

今だから分かるのですが、こういう重要な事は、子供自身にちゃんと伝えておくべきなのです。6,7歳の子供でもこういう話は理解できるし、本当の事を教えてもらっていれば、それなりに対応できるものです。残念ながら、私の両親にはそういう考えはありませんでした。

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そして、小学校5年生のある日、探し物をしていて、箪笥の中から”母子手帳”という小さな冊子を見付け、中を開いて見て、私は大きなショックを受けました。私の姓が親戚の家の姓になっていたのです。近所の人達が言っていた生家のものでした。私は体中の力が抜け、自分の心とそれまでの親子関係がガラガラと崩れるような感覚を感じました。なぜ両親は嘘をついていたのか、実の両親は私を要らない子だと思ったのだろうか、今の養父母は私のことをどう思っているのだろうか、いろんな不安が次々と湧いて来ました。寂しくて、苦しくて、自分など生まれて来なければ良かったとさえ思いました。

その後は、育ての両親を全く信用できなくなり、顔を見るのさえ嫌になりました。自分が養子であると知ったことは誰にも言えないまま、でもいつかは両親の方から言ってくれるだろうと期待しながら、中学校卒業まで過ごしました。でも、結局、親の方から言ってはくれませんでした。

高度経済成長の大波は日本の片田舎まで押し寄せ、もはや小さな農家が農業だけで生活する事は不可能な社会状況になっていました。それに、私は農業をする気は全く無くて、急激に進化しつつあったコンピューターに興味と関心を持っていました。

また、私達が学校で学ぶ内容や社会が必要としている人物像は、親達の世代とは全く異なるものとなっていました。いろいろな面で、親達との違いが大き過ぎたのと、親を信頼できなくなっていた心の状態とが重なり、親と一緒に住んでいる事が次第に耐えられなくなって行きました。

このような葛藤を抱えながら思春期を過ごした事が、その後、心理学やカウンセリングに惹かれるようになる下地を作ったのだと思います。

高校入学と同時に家を出て(近くに通える高校が無かったという理由もありますが)、私は同じ中学校の同級生が誰も行かない高校を選んで入学しました。私の事を誰も知らない所で、一からやり直したいと思ったのです。

そして、心理学関係の本を高校の図書室で探して来て、読みふけった時期があります。その頃は、心理学系の本はあまり無くて、”S.フロイト”と”森田正馬”の本が僅かにあっただけでした。それでも、それらの本は私に心理学に興味を持たせ、人間の心の複雑さと不思議さを感じさせてくれました。また、自分自身の心を理解するのに、かなり助けになりました。

しかし、自分の抱えている問題を解決するには至りませんでした。その後の私は、キリスト教に惹かれて聖書を読みふけったりもしました。

大学では物理学を学び、卒業後は、塾の講師、セールスマン、農協の臨時職員などを転々とした後、広島県の高校教員になりました。

赴任した高校は、いわゆる”荒れた”学校で、毎日のように喫煙や喧嘩や様々な事件が起こっていました。多くの生徒達が、家庭的に大きな問題を抱えていました。両親の離婚、家族間の絶え間ない喧嘩、貧困、放任、社会的な差別、等々です。そういった生徒達と関わる中で、私は自分の家庭の問題と重なるところもあり、この生徒達のために何らかの力になりたいと思うようになりました。

そして、カウンセリングや心理学の研修会・ワークショップ等に、でき得る限り参加するようになりました。福岡、愛媛、香川、大阪、長野、静岡、神奈川、東京、千葉、山形、北海道まで出かけて行きました。

また、親からの虐待や放任などの影響で、人間関係に支障をきたしていたり、生き辛さを感じながら生きている人達が、お互いに支え合って生きていく為の自助グループ「家族の問題を語る会(福山ACミーティング)」を仲間と一緒に立ち上げました。1998年3月のことです。当初は毎週1回、途中から月に2回の会合を持ち続けて来ています。

そのような活動を続けていく内に、自分の苦しみや不安の原因、その対処法などが分かってきました。そして、同じように苦しみを抱えて生きている人達が大勢おられる事も見えてきました。

“人を愛する”とは、“心から人を許す”事だとも気付かされ、両親とも和解し、肺癌で入院した父を最期まで看取りました。母とも最後の5年間は同居し、その後、クモ膜下出血で倒れた母の臨終を看取りました。父も母も私に感謝の気持ちを表してくれました。

そして、両親に対する嫌悪感やわだかまりは払拭されました。

話が前後しますが、1995年1月に阪神淡路大震災が発生し、その後遺症として”PTSD”という言葉がマスコミを通して日本中に広がりました。また、学校でのいじめや子どもの自殺、不登校、児童虐待といった事を、社会全体の問題としてマスコミも取り上げるようになりました。

そういった問題に対する対策の一環として、カウンセリングや心理学の講座や研修会が各地で開かれるようになりました。私自身の研修会参加の回数も、うなぎ上りに増えて行きました。
そして、学校にはスクールカウンセラーが配置されるようになりました。

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私は、”日本カウンセリング学会”に入会し、研鑽を積んで、2002年11月に認定カウンセラーの資格をいただきました。

当初は、学校現場でその資格を生かしたいと考えていたのですが、学校現場では“ゆとり教育”が原因とされる学力低下が問題となり、教科学力の向上が最重要課題とされるようになって来ました。そして、授業時間をどうやって増やすかという論議が多くなされ、学校運営の効率化が推し進められるようになって来ました。その結果、授業以外の時間が削られ、個々の生徒が抱えている悩みに親身になって取り組むような相談業務は軽視されて来ているのが実情です。心の問題を抱えている生徒はスクールカウンセラーに任せよう、という雰囲気が年々強くなって来ています。

また、学校という所は子供達を守り育てるというよりも、子供達の心を傷付ける要素の方が多いのではないかと感じる事が多々ありました。子供達に対する管理が、年々とても強くなって来ているのを感じます。

そのような状況の中で、私は、傷付き悩んでいる子供達や、生きづらさを感じながらも懸命にがんばって生きている人達、また、人間関係のストレスや心身の不調などで苦しんでいる人達の援助がしたいと思うようになりました。

また、自分の良さを認める事ができず、自分は何の役にも立たない人間だと感じている人達が、自分自身を肯定し、自分の長所を生かして活き活きと活動し、前向きに生きて行けるようになるためにも、でき得る限りの協力がしたいと考えるようになりました。

悩んだ末に、私は、2003年3月末で15年間勤めた高校教師の仕事を辞め、カウンセリングと学習塾を自営で始めました。経済的には苦しくなるので、かなりの決意を要しましたが、学校現場で自分の意志に反した仕事を続けることは、もはや私にとっては考えられない状態でした。

そして、福山市駅家町にあるビルの一室を借りて、カウンセリング・サポート事業「駅家セラピールーム」とフリースクール事業「実光塾」をスタートさせました。

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カウンセリングと塾の歩み

「駅家セラピールーム」には、人間関係での悩みや、ひきこもり、不登校、うつ、不安、摂食障害、依存症、等の問題を抱えておられる方、あるいは、自分自身を好きになって、より良い人生を送りたいと思っておられる方が、大勢相談に来ておられます。

地元の病院や保健所や精神保健センター等との連携を取らせてもらったり、地方新聞に写真入りの紹介記事を載せてもらったり、いろんな自助グループとの連携を持ったりして、カウンセリングを必要としている人々に対して、「駅家セラピールーム」の存在を知ってもらう努力を続けて来ています。

カウンセリングの方法は、最初にご紹介したような内容ですが、基本的には、じっくりとクライアントさん(来談者)のお話をお聴きし、理解をして、回復と成長をしていくための方法をご一緒に考えていくという姿勢を大切にしています。

「実光塾」の方は、普通に中学校や高等学校に通っている生徒、不登校中の生徒、通信制高校の生徒など、いろんな生徒達が通って来ています。少人数(1~4人)のクラスで、生徒の希望に応じた内容の授業を行なっています。数学・英語・理科・社会・国語・美術など、何でも、でき得る限り対応しています。
子ども達が自分の学びたい事を学べる場所として、地域に根ざした活動をしていきたいと考えています。

上記の「駅家セラピールーム」及び「実光塾」の2つの活動に、自助グループ「家族の問題を語る会」を合わせた3つの活動を、1つのNPO法人として立ち上げ、より公益性のある活動にしようという考えが、2005年夏頃より湧いて来ました。その後、半年間の準備の後、2006年5月に特定非営利活動法人(NPO法人)として広島県より認証されました。
以後、NPO法人として、住民の方々の心身の健康の維持・増進に努め、子ども達の教育の支援を行なってきました。また、1人ひとりの方が、その人自身にとって充実した人生を歩んで行かれるための支援を続けてきました。

その後、2016年3月の総会で、経費削減のためNPO法人は解散し、任意団体として再出発することが決まりました。活動内容は変わっていません。

関心を持たれましたら、どうぞお気軽にご連絡ください。

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